心配は大いにしよう!
「心痛はしてはならぬ。が、心配は大いにせよ!」
と言葉を残したのは元臨済宗妙心寺派の高僧、山本玄峰師の言葉です。
『心痛』と『心配』は違います。
考えても仕方のないことで悩むのを「心痛」といい、
これは苦しいばかりで何の意味もありません。
一方、「心配」は心を配って考えて、何とかしようと悩みと向き合うことです。
この「なんとかしよう」と向き合う過程こそが自分自身を磨く糧となるのです。
結果には執着しません。
心配は大いにしましょう。
玄峰さんは和歌山出身の高僧で、
若かりし頃に目の病に苦しみ、治癒を願って四国遍路をされたそうです。
その最中に行き倒れてしまいましたが、その場所で救われたことがきっかけで得度されました。
(※得度=悟りの世界にわたる(度)こと。いわゆる出家。)
心配することをネガティブに捉えたり、批判される方もいらっしゃいます。
過度な心配によって身動きが取れなくなったり、
そのことでご自身の感情や気持ちが荒ぶったり、
ネガティブな方向に行くことは確かに良くありません。
まさに心を痛める行為ですよね。
ただ、心配は「心を配る」と書きます。
冒頭にも書いたように心を配るということは、
その状況をなんとかしようと悩みながら、試行錯誤しながらも行動に起こすことです。
行動を起こしさえすれば心は今に向きます。
今に向いている心の状態というのは囚われのない状態を指します。
囚われのない状態で行動を起こすことがベストパフォーマンスに繋がり、
結果としてより良い結果を招きやすいとも言えます。
「禅語」とは文字通り禅の言葉。
禅宗の文献に記述された辞のことを言います。
禅とは何かを知り、その教えを理解し、行うことは到底容易いことではないかもしれません。
でも、禅は私たちが生きていくうえで大切なヒントを与えてくれます。
情報社会になり、人との繋がりが容易に持てるようになった分、
良くも悪くも人間関係も価値観も複雑化、格差も広がり、
ある意味、悩みやすくなったり、考え込みやすくなったり、
少々の息苦しさを感じやすい世の中になりました。
そんな時こそ禅の教えに立ち返り、
今一度シンプルに生きる術を教えてくれるのが禅の心構えです。
マインドフルネスが再び脚光を浴びてきているのも
今の時代背景があるからと言えます。
但し、1つだけ大切なことがあります。
「禅の教えは文字で伝わるものではない」ということです。
これは実際にお釈迦様が修行僧に伝えた一言だそうです。
「文字で伝わるものではない」という意味をもう少し詳しく説明すると、
お経の言葉から離れて、お釈迦さまのようにひたすら座禅をし、
身体で体験することで悟りを実感しなさい
ということです。
また、「悟りの境地は言葉で説明することができない」
という意味も込められています。
考えこんでしまい、
手も足も出なくなることありませんか?
そんなときには言葉でなく、
身体で実践することが大切、ということですね。
何事も身体を使って実践して初めて、身になるものです。
shun
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