亡きマネージャーに捧ぐ。




本エントリーは、過去に別のサイトで運営していたブログで書いた記事を再編したものです。

甲子園では、高校野球真っ只中!
青春の熱い戦いが毎日繰り広げられています。

僕の通っていた高校は「信貴ヶ丘高校」と言う高校。
この高校の近くには宮崎アニメでも注目を集めた、もののけ姫の劇中での森の中を参考にされた場所もあります。
(※本家本元は確か島根やったかな)

電車と徒歩で家から20分ぐらいの近さの高校でした。
けど、この信貴ヶ丘高校は僕の代(20期生)を最後にその歴史に幕を閉じました。
(校舎は信貴ヶ丘を使用)

少子化の影響で合併し、西和清陵。と言う名の高校に変わりました。
よって、2、3年の時からは「合同チーム」として野球部は活動していました。
当時、全国的に再編統合はまだまだされていなかったので
僕たちの高校が合同チームとして大会に出場する事が
朝日新聞の夕刊の社会面で大きく取り上げられました。

僕にとって最後の夏となる3年の時。
信貴ヶ丘として最後の校歌を歌えるかどうか。
練習の後に、マウンドに1人立たされて西和清陵の部員も
歌えるように信貴ヶ丘の校歌を歌ったのが懐かしい。

合同チームと言えど、合併相手の上牧高校は別。
信貴ヶ丘・上牧の合併校、西和清陵が毎日一緒になって練習をしていました。

ユニホームは違っても、毎日同じ校舎で学び、同じグラウンドで辛い練習を耐え抜きました。
正直、信貴ヶ丘と清陵の境界線は一切なかった。

先輩後輩の仲の良さはどこにも負けない。
そんな風に思っていました。

僕の1つ下の世代からは清陵の後輩たち。
かなり壁があったと感じていました。

「1日たりとも休めない」


練習が辛くて泣いた時があった。
試合で同じミスを繰り返し、悔し涙を流した事もあった。

けど、そんな時自分を叱咤激励してくれたのが1つ下の清陵の後輩たちでした。

日が経つにつれ、後輩たちが親しんでくれるようになったし、
野球の事も教えてくれた。年下から学ぶ事は恥ずかしいことじゃない。
年功序列は無用。

「大島さん、足速いんだからセーフティー極めたらどうすか?」

セーフティーバント。
これを教えてくれたのは監督でもなく、同級生でもない。
清陵の後輩でした。

それから、マシン打撃の時は人より多くバントの練習を重ねました。
盗塁の練習も結構したと思います。

「走れたら走れ(=盗塁)」

そんなサインもありました。

そんなこんなで迎えた最後の夏。
相手は高取国際。ピッチャーは2年生エース。
天理高校からスカウトされたが、断って高取に入学したとされる子でした。

正直、スコアは忘れた。
そして、負けた。

涙を流した。
けど、その時に流した涙は悔し涙ではなかった。

「もう、このメンバーで野球が出来ない」

そんな寂しさからの涙だった。
辛かったことに変わりはない。
肩は壊すし、太ももの肉離れは起こすし腰痛はひどくなるし。

けど、監督に
「どんな事でも耐えてみせます」と言った以上、泣きごとは言ってられへんかった。

日が経つにつれ、辛さの中に楽しさがあったように感じた。
試合後、涙が止まらんかった。

後輩や同級生、応援に来てくれた友達に
「よぉ頑張ったな!」って言われて、余計に涙が止まらんかった。
その日の夜も本当に多くの人からメールが来て、そのメールは今でも大切に保存している。

次の日の朝刊。
ある新聞社のスポーツ面で信貴ヶ丘・清陵VS高取国際の事が大きく取り上げられていた。

そこには監督のコメント、主将のコメント。
そして・・・
僕のコメントが載っていた。




監督、主将のコメントよりも長く大きく載っていた。

グラウンドでは校歌は歌えなかったけど、試合後、
球場の外で皆で信貴ヶ丘の校歌を歌った。
もちろん、西和清陵の選手も一緒に。





完全に西和清陵化してから6年が経った昨日。

西和清陵になってから勝ち星は1度もなく
、過去に勝てそうな試合があったが、雨のために途中で中止になってしまったのがあった。

VS高田高校。
過去2回、甲子園に出場し県大会でも常に上位に君臨する名門校。
2回までに8点を取られ8-0からの完全、一方通行ゲームだった。

内心「今年もあかんか・・・」そう思った。


今年の1月。野球部の2年生マネージャーが病気のために急逝した。
野球が本当に大好きな子だったようで、
幼き頃から抱えていた病はその時まで部員には気づかれなかったそう。

それくらい、明るく元気に野球部を支えていた。




彼女は倒れる1月のその日まで、周りには内緒でひそかに千羽鶴を折り続けた。
家族は彼女が亡くなった後に鶴を折り続けていたことに気づいた。

その数は半端なかったそう。


「何としても勝たなければいけない」
清陵ナインの意志は完全に1つになった。

昨日、そのマネージャーのご両親が遺影を抱えて応援に来ていた。


8-0。


どん底からの逆襲が始まった。
4回裏2死2塁。

大会第1号のHR。
ここから怒涛の攻撃。
8点差あった点差は徐徐に縮まり、ついに7回。



逆転。



8回の裏にも2点を追加し、8-11。
9回、センター吉田のファインプレーもありついに勝利の時。



涙が止まらなかった。

夏、初勝利。
女神は紛れもなく彼女だった。
天国にいる彼女と、西和清陵ナインの気持ちが一緒になった瞬間だった。

ご両親は、泣いていた。

この時、泣かずにいれなかった人はいないと思う。
夏初勝利、初校歌。

今年の夏。

どこが優勝するかは分からない。
けど、今夏、どこのチームよりも輝いていたのは西和清陵だと思う。


川西さんへ。
あなたは、西和清陵ナインの1人として大きく勝利に貢献したと思う!
誰よりも輝いていたと思う!!選手1人1人が貴女に感謝している。
信貴ヶ丘はなくなったけど、西和清陵はこれから長い歴史を歩みます。
どうか、これからも末永く見守ってやって下さい。

また、後輩たちの練習を見にグラウンドに行きます。
その時、グラウンドで会いましょう。

この1勝は、信貴ヶ丘西和清陵の歴史において大きな意味のある1勝だと思う。

野球に出会えて、野球をしていて本当に良かった。と最近すごく思う。
大学で野球をするつもりは正直なかった。

でも、大好きな仲間と今も野球を続けられている。
本当に幸せな事。

辞めた時、ある先輩が涙を流しながら「戻って来いよ」そう言ってくれた人がいた。
同級生がいた。

大きな決断やったけど、戻って本当に良かったと思う。
呼び戻してくれた先輩、同級生に感謝。

そして、同じ場所で過ごした後輩である西和清陵の子たちに感謝。
最後までやり抜いてなければ、恐らく今の自分はいなかっただろうし、怠けていたかもしれない。
精神的にも、もっと弱かったかもしれない。


だからこそ、野球は奥が深い。


野球に出会えた喜び。

野球が出来る喜び。

野球を通して得る仲間の喜び。

野球から得る学びという喜び。


小~大学にかけて野球(ソフトも)を通じて出会った仲間。
みんな大好きです。



本当にありがとう。



shun

Shun Oshima

マインドフルネス指導者 l フォトグラファー 12歳の時に訪れたイギリスをきっかけにカメラに触れるようになる。 フリーで写真家としてヨガやウェディング、イベント、ポートレート、風景など様々なジャンルの撮影をこなす。 また、全国でカメラワークショップも開催。 その他、マインドフルネス指導者としても活動に取り組む。

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Shun Oshima

マインドフルネス指導者&フォトグラファーとして活動中。

■マインドフルネスインストラクターとして
脳科学や心理学、生理学、禅といった様々な分野を通して、マインドフルネスを学び日本国内にてパーソナルレッスンを中心にその人に応じたオーダーメイド型のレッスンを展開。
また不定期にグループレッスンも開催しており、
マインドフルネスを1人でも多くの人に伝えることで、
日々の息苦しさや、その人が持っている目標(ビジョン)の達成のサポートに取り組んでいる。

■フォトグラファーとして
ウェディングや風景、ポートレート